我が家のバイリンガル



幼児期 in 香港(1990年〜)

うちの娘が1歳3ヶ月の時、私たち一家の香港生活が始まりました。
その時の彼女が話していた言葉はもちろん「なん語」、ばーばー、あーあーです。
その頃の私は全く英語ができませんでしたから、家庭内では日本語でした。

香港では「アマさん」というお手伝いさんを雇うのが一般的で、住み込みで雇うと
ころも多く有りましたが、うちは1回3時間を週3回のパートタイムで御願いしていまし
た。アマさんは近所の駐在員の奥さんに紹介してもらった方で、香港人のおばちゃんでした。彼女は日系企業の駐在員宅専門にしていたようで、日本語の単語を少し知っていました。た。しかし、英語も片言でしたのでコミュニケーションをとるのが大変でした。
しかし子供は大したもんです。娘が丁度2才位の時、日本語もろくにしゃべれないのに、かかってきた電話をとって発した第一声が、「ワイ?」でした。 これは広東語で「もしもし?」という意味です。 「日本語でも、英語でもない、なぜ?」と不思議でした。うちの実家の母は、中国人の家に間違い電話をしたと思って、思わずきったそうです。

それからというもの、日本語の習得と同時に、広東語と英語の習得も始まりました。レストランや買い物に行くと、「げいちんあ?(いくら?)」「むごい(どうも)」「まいたん!(お勘定!)」という言葉を次々に覚えました。 香港の公用語は英語でしたが、高校からレベルの高い学校に行ったり、アメリカやイギリスに大学留学をした人しかまともな英語は話せず、一般の人はほとんど広東語のみでした。テレビも一日中英語というチャンネルはなく、住んでいてもなかなかきちんとした英語を聞くことができませんでした。

たまに日本に一時帰国すると、スーパーやレストランで、「むごい」「まいたん!」...注目の的でした。


保育園 in 香港(1991年〜)

娘が2才8ヶ月になった時、保育園・幼稚園探しを始めました。 香港には2つ日本の幼稚園がありましたが、私の好奇心と娘の可能性を試してみたくて、イギリス系のインターナショナルの保育園に入れる事にしました。うちの娘は人見知りというものをしたことが、ほとんどなかったのですが、最初の1ヶ月は(これは全く予期しなかった...)朝保育園バスに乗る時大泣きに泣き、毎朝私の体から引き剥がすようにして先生にバスに乗せてもらっていました。
入園して数ヶ月経った頃、先ず覚えて帰ってきた言葉が、”Mine!”と”No!”でした。たった、これだけの言葉でしたが、妙に発音がいいなぁ〜と思ったことを記憶しています。

私はその頃もまだほとんど英語を話すことはできませんでした。しかし、娘に何とか早く英語の環境に慣れてもらうため、保育園が終わってからもクラスのお友達と遊んでもらおうと、保護者の方と連絡をとるため四苦八苦しました。また、先生とのコミュニケーションや保育園からの手紙を読むことも私にとっては大変な仕事でした。 最初の1年は本人もなんだか良く分からずに過ごしていたようですが、3歳半くらいから保育園で何をしたか、お友達と何を話したかを家で伝えてくれるようになり、本人も保育園を楽しみだしたようでした。先生からも娘が英語でこんなことを話したというフィードバックをもらう事が多くなりました。そして、お友達の保護者から逆にお誘いの電話をいただくようにもなり、お友達と遊ぶようになるにつれ、娘の英語も上達して2,3語の文で話す事ができるようになりました。 
多分、聞く方はもっと上達していたんだと思いますが、どのくらい聞けているかは当時の私の英語力では先生に質問しても、その答えが理解できなかったでしょう。


幼稚園から小学校へ in 香港(1993年)

先ず小学校に入るにあたって、どの小学校に入れるかを決めなければなりませんでした。 香港の日本人小学校は、当時シンガポールに続いて世界で2番目に大規模で学力的にはレベルが高かったのと、自分の英語力が今ひとつだったこともあって、日本人小学校に見学に行きました。各学年3〜4クラスずつあり生徒が狭い校舎の中で、勉強していました。しかし、PTAやバス委員会(安全のためスクールバスに交代で保護者が同乗する)の話を聞き、さらに一クラス40人前後がぎゅうぎゅう詰めで
勉強しているのを見て進学は見合わせました。
次に見学に行ったのは、香港島の裏側にあったアメリカンスクール。しかし、ここは学費が高いのと、バスに約40分くらい乗らなければならいので、ボツ。 カナディアンスクールは、日本人と韓国人が多く英語のレベルが低いという評判と日本人と韓国人の確執があるというのを聞いて、それもボツ。

最後に行ったのが、近所のイギリス人のための政府のGlenealy小学校でした。 ここは、政府の学校の中でも学力的にとても良いという評判で、見学に行ったところ、非常にきちんとしていてすぐに気に入りました。 しかし、ここは外国人には親子面談があり、それをクリアしなければなりませんでした。 イギリスの小学校は、5歳前後の9月から入学します。日本より1年半早いわけです。 娘がインタビューを受けたのは、彼女が4歳2ヶ月のとき。 日本語もおぼつかないのに、英語なんて、、、予想どうり不合格でした。でも校長先生に「半年後にまた来なさい」と言われ、それからは家で英語を少しずつ練習するようにしました。

しかし、家で練習といっても私達は英語ができません。 そこで教材として使用したのが、ディズニーのビデオと、カセットテープが一緒になったお話の本でした。ディズニーのビデオには、私自身も随分とお世話になりました。 あとは、近所のネイティブに保育園の後遊んでもらう事でした。 しかし、日本語もきちんとキープしたかったので私達夫婦は徹底して日本語。 

そして迎えた、第2回目の面談。 彼女が副校長先生と別の部屋に行っている間、私達は校長先生とお話。 しかし、この校長がものすんごいスコティッシュ訛り。 この時私達には、校長の英語がどこかの訛りを含んでいるなんて気がつく余裕もなかったんですが、後で聞いて納得。 殆んどわからないのを必死に聞き取り、なんとか夫婦2人で話をつなげました。 この涙ぐましい努力(誰の?)の結果、見事合格! 
その晩は、ビールでお祝いでした♪


小学校 in 香港(1993年9月〜)

さぁ、いよいよ小学校生活の始まりです。
担任のMrs. Randolは、適役中の適役というくらい新1年生にぴったりの先生でした。
とにかく優しくて、温かくて、聞き上手。うちの娘もすぐに学校が大好きになりました。お友達もすぐにできて、学校にお迎えにいってもすぐには帰ろうとしません。
でも、学校もお友達も大好きで文句一つ言ったことがなかったのに、毎週のようにひどい偏頭痛を起こし、吐いては保健室のお世話になっていました。その度に私は学校に呼び出されて、余りにも体調を崩す回数が多いので、お迎えに行ったたびに事務の先生には、睨まれていました。

そして、ついに校長先生から電話がかかってきました。
校長先生:「Hello Mrs, △■●□▼☆△○・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・●□★?」 な、なんだ〜??
私:「I beg your pardon?」(というのがやっと)
そして再び校長先生が、「△■●□▼☆△○・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・●□★?」 あ〜何を言っているのか分からん!!
私:「Sorry, I can't understand. I will come to see you.」(と言えたかどうだか...)
ということで、校長先生に面会に行ったところ、「娘さんがこんなに頻繁に体調を崩すのは、何か重大な病気に違いないから、すぐに医者で精密検査を受けるように」という事でした。

早速医者とアポイントをとって、娘の精密検査をすることになりました。
結果は異常なし。 お医者さん曰く、「慣れない英語環境で、長時間集中しているために体力を使い果たしているためでしょう。」とのことでした。(先生とはもちろん漢字で筆談。あ〜香港で良かった...) 本人は、それを苦痛だと思った事はないのでしょうが、小さい体で(当時慎重108センチ、体重約15キロ)一生懸命英語を吸収しようとしていたんだなぁと思うと、ちょっと心が痛みました。
救いだったのは、本人が学校が大好きだっとこと。

学校からは、毎日1、2冊絵本を持って帰り、それを読むのが宿題でした。最初は見開きに2,3語文が1文のみの絵本でした。家で読み、学校ではリーディングチューターと呼ばれる保護者のボランティアが、一人一人の読みをチェックしてくれました。次のレベルに達すると、1ページにつき3,4語文が1文ずつ。 次の段階は、1ページに2文ずつ、という具合にだんだんと難しくなっていくシリーズ本。登場人物はいつも同じなのでレベルが上がってもスッと入れるのです。
読む時に娘がやっていたのが、「Phonics」。 その時はまだ「Phonics」についての知識はなかったのですが、娘は「C-A-R」とか「Th−I−S」というように新しい単語を読んでいたと記憶しています。

学校の本を読み出してから、1,2ヶ月すると家でも時々英語を話すようになってきました。特に学校の話をする時は、英単語まじり、それもネイティブの発音での英単語を混ぜて話をしていました。お友達とも英会話をしながら遊ぶようになってきたのがこの時期。

イギリス系の学校では詩の朗読が盛んで、毎年学校ごとにギルド・ホールというコンテストに参加していました。イギリスから審査員を招き、各学校から選ばれた子どもが課題の詩を朗読します。その選ばれたメンバーの中にうちの娘も入っていました。私は訳も分からずとりあえず担任の先生に言われたとおりに、家で大きな声で感情を込めて詩を朗読できるように娘に練習させました。私にはまるで意味の分からない詩でしたけど。
コンテスト当日、身長1m10cm程の小さな娘は、3人の審査員の前で実に堂々と詩を朗読。今思えばこれが海外で子育てをしようと思った直接の原因かも... 残念ながら賞を取ることはできませんでしたが、結構ポジティブな評価を頂きました。


小学校 in シドニー

1996年7月、日本帰国命令が出る直前に娘と2人で香港に旦那を残し、オーストラリアへ移動。私の学生ビザで入国。娘は香港でYear3を終了していましたが、オーストラリアでは、Year2に編入。英語の問題はなかったはずでしたが、オートマチックに英語の時間はESLクラスへ。後で、担任に「ESLは必要ないのでは?」と尋ねたら、「それもそうね」とあっさり。
Year5からは、リーディングチューターという役割を学校から仰せつかり、低学年の主に日本人のバックグラウンドを持つ子供たちのリーディングチューターとなりました。又、キンディークラス(5歳児)の日本人の子のバディ(お世話役?)となったのですが子供よりお迎えに来た保護者の方々のお相手が結構忙しかったようでした。Year5ともなれば、大人とも結構話が出来るのでそこで少し大人の日本語を学んだかも知れません。それと共に、日本人が学校に編入・入学してくる度に通訳に借り出され、本人には良い勉強になりました。

この頃、香港にはなかった日本語補習校へ通わせようかと思案し始めましたが、本人は全く興味なし。理由は「日本語を習う必要性を感じないから」。家で読む本も専ら英語の物語ばかり。私達との会話も、日本語で話しかけて英語で返ってくることが多くなっていました。このままではいけないと思いながらも、結構頑固な娘なので無理強いして日本語をキライになってもと思い、少し様子を見ることにしました。但し家では徹底して日本語のみ。

Year6になって、日本人のお友達ができました。そのお友達が日本の漫画とゲームが大好きで、早速娘も影響されて漫画とゲーム好きになりました。しかし、漫画もゲームも日本語が出来ないと読めないし、理解できない、遊べない。ロールプレイゲームなどいちいち親を呼ばないと先に進めない、という状況が続きました。こちらも画面が変わる度に呼ばれていては何も出来ず、とうとう「自分で日本語が読めないなら止めなさい」ときっぱり言い渡しました。 しかし、どうしてもゲームをやりたい娘は孤軍奮闘、分からない言葉は辞書と想像力でなんとか切り抜け、ゲームの攻略本を少しずつ読めるようになっていきました。日本語の語彙は増えていったものの、供給元はゲームと漫画。その偏ったことといったら! 忍者物を読めば忍者用語、霊界ものを読めば霊界用語...と物凄い偏りぶり。親としてはこのままにしておいて良いものか悩む事の毎日でした。

ハイスクール in シドニー工事中





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